昭和44年12月28日 朝の御理解



 御理解 第89節 「此方の道は傘一本で開くことができる。」

 お願いをしておかげを受けるという事と、道を開かせてもろうて、道によってのおかげ、道によるおかげ、ていうのはああ、ま、大変違うと思うんですね。おかげの頂けれる道。そういう道を、開かせて頂こうという所に、お道の信心がある訳ですね。しかもその道は傘一本で開くことができると。こういうておられるですから、あたくしどもが、そういう道を体得する。
 そういう道を教えてもらうという姿勢を持たなければ、何十年金光様のご信心を頂いても、道によるおかげというのは生まれてこない、ね。もちろんその道というのは、天地を貫くとでも申しましょうか、ね、それこそ無尽蔵、限りのないおかげに繋がる道なのです。だから金光様の信心しておるから頂けるというものじゃないですね。金光様のご信心を、によって天地に貫くというか、繋がる無尽蔵のおかげに繋がる道を開いていくという姿勢、体制というものをね。
 だから稽古しないなら、あぁそれはできまあのう、稽古しない限りですね、それは何十年信心しても駄目であります、ね。すからどうでも稽古をしようという気になりますとね、神様が稽古をさして下さるんですよ、ね。それこそ手を取り足を取りして教えて下さるんですよ。けども、稽古をしようという気がない、ならああやはりそれは、ただその時その時のおかげに過ぎません。
 例えば昨日あたくしちょっとテレビば見よったら、どっか外国の外国の事での、まあニュースかなんかでしょうか。ああスキーをやっておる場面が出ておりましたが、ああやはり難しい事だと。スキーを、スキー服を着て、スキーを身に付けてやれば誰でも滑れるという事はない、やはり稽古をしなければ滑られない。ですからほりゃほんとにあんなに滑れれたら気持ちが良かろうと、こう思いますよね。
 スイスイと、その自由自在にスピードを出しながら滑っていく、どんな障害があってもジャンプしてバーッと飛び越えていく、ありようなんかというかああま実にその素晴らしいスポーツですね。だから誰でも滑れるという事はないのです。けれども稽古をしようという気になって、スキー服を身に付けスキーを身に付けて、いわゆる手を取り足を取りしてもらうとです、子供でも滑ってます。気持ちよさそうに滑っておる。
 山から山へ、谷から谷へ、をわたるときなんかは、もうバーッジャンプしてその飛んで向こうの方へ滑って行きますね。信心もおんなしです。ただお願いをしておかげを頂くという信心からですね、いわゆるほんとに信心を稽古してしかも道による信心、いわば(金光道)初とでも申しましょうか。その道を体得したい。道による私はおかげがです身に付く頃いわばスキーが、もう自分の体と同じような具合になってくる。
 一つも邪魔なものではない。そこまでです稽古しなければいけない。【信心しよっと悪いこつもでけんと言った様な事をよく言う人がありますがね。信心がいわゆる邪魔になっておる、スキーが邪魔になっておる訳ですね。】ですからもう信心が身に付いてしまう。邪魔になるどころか、そのスキーを履いておるから行ける、行けん所にも行けるし、越えられない所も越えて行けれるのであるそうでしょ。
 信心を身に付けだから初めはやっぱぎこちないです、ね。信心がまだよく身に付いていないのですから稽古中なのですから。ま倒れる事もよかろう転ぶ事もまたよかろう。ね、怪我せぬように、ま転びかたの稽古もよかろう。私は信心のですねそういう道を体得する、または習おうとする姿勢を持って稽古しなければね、信心の楽しみはないです。ですから、そういう道を体得しようという姿勢になりますと、神様が稽古させて下さります。様々な実際問題を持って、その事を通して稽古をさせて下さる。
 だから、信心に(く?)がいってくる、信心に少し身(実?)が入ってくると、だから、お試しがありますよといったような言葉を持って、教祖様はおっしゃっておられますがね。信心に身がいってくる、信心が少しおもしろうなってくる。と、それは稽古中ですから、様々な問題を持って稽古さして下さるのです。(ですからそのような時に信心の浅い人から見れば、これほど信心するのにおかげを受けられんと言った様な事を)この様な事を申されているでしょう、まあ脇から見るとそういうふうに見えます。
 それはね、稽古ですから、もう本番じゃないですから。ね、いよいよ本番という事になってくる、そこからしかおかげが受けられません。ね、どんなに例え勉強しておりましてもです、ね、やはりいよいよ試験という時にです、ね、それが良い点数を取らせて頂くからやはり成績が、あぁ上がるというか、良い点数を取る事が出来る。稽古中は誰だって、その点数つけてもくれんです。
 まあつけた所でそれは、いうならばあぁ進学とかそういう事に関係しないです。いよいよその試験を見事に受けて通ってから初めて、進学という事になる。ね、稽古中はだから、稽古中はただ稽古の楽しさと、またはあぁ信心の上ではそうでばっかりはない。ほんとに神様のこのような働きを受けておる、この様なおかげを下さっておるのだから、と言う様な横の方へ楽しみを見せて下さりながら、本当な本筋への信心を教導してって下さるという場合が、あぁまほとんどでございますね、信心の稽古とは。
 私し共が信心の稽古中、もうほんとに最低の生活をさして頂いておる、信心しよって、どうしてこんな貧乏せんならんだろうかと言った様な時でもです、片一方の方にはね、もう信心しよらなければ頂けまいとも言う様なおかげを見せて下さる。だから有り難く、またそれを楽しくも稽古していく事が出来るんです。こりゃあ絶対そうそれですね。だからおかげの頂けんはずはないという元気もいわば出るわけなんです。
 そのようにして、ま、勉強さして下さるわけですね。そこで、『此方の道は傘一本で開くことができる』とおっしゃるその、此方の道という事がです、道による事、道によって道を開く事ができるとおっしゃる、その道を開かせてもらう、体得させて貰うという事に焦点をおく。ならその傘一本とは、どういうな事かと。傘一本とこう、いと簡単に表現して下さっておりますけれども。
 中々所謂稽古していかなければ分かりもしなければ、あぁ傘一本の意味もまた分からない、ね。今朝から私し御祈念中に、今日は私し昨日とは、また打って変わっての事、昨日は私しお詫びの印に皆さんにざんげしたと言う様な御理解を、お話し聞いて貰ったんですよね。今日私し初めてこの様な気持ちにならせて頂いたという事はね、ほんとにあの最近有り難い世界中の事が。
 世界の国々隅々に住まいをしておる、生きとし生けれるものだけではない人達の上の事までね、願わなければおられない切実感を、その御祈念中に感ずるんです。色が黒かろうが白かろうが、そんな事じゃない、もうほんとに、前人未到といったような深い奥の、で、過ごしておられる人達もあるんですよ。例えばそう人達の上にでも、こう思いをかける、信心ちゃ有り難いね。
 世界中の隅々までここここに座って(御結界)おってという意味思いをはせる事ができるんですから、ね。そこん所を教祖は、『世界は和賀心にあり』とおっしゃるような、ああ、ふうに表現しておられるんじゃないだろうかと思うんですよね。今日あたくしね、世界中どころかね、もうほんっとにですね、宇宙全体、いわゆる天地間の事。ね、天地、天地間、天地の中にその一点地球がある、ね、
 世界がある。だけではないまあだどのくらい、例えば天地間の中にはです、神様の大きな働きの一分一厘間違いのない働きの中に、あるかという事を思うのですが、ですね。どこの一部がちごうてまいりましても、やはり地球の上にも響きがある。あたくしども世界の、この地球上に住まわせて頂いとる人間の上に色んな変化がある事なんですから。そういう働きに対する所のお礼と同時にです。
 そういう天地の運行とでもいうか、そういうな事でも、どうぞ乱れる事なくおかげを頂きます事をです、なんかそんな事が今日は、しきりに祈られる。世界中どこだけぐらいのことの意味☆じゃない、宇宙全体の事が願われたり、お礼を申し上げたりさしてもらえるような気持ちなんです。昨日、自分の身の置き所のないように、神様の前に詫びておるか、と思うと、今日は、それこそあたくしの心が天地のいわば、隅々まで、こう、働きができるような状態にある。
 そうしましたら、神様から、【『月家円朝(つきのやえんちょう)』という字を頂いた。】お知らせ話家におりますね、『月家円朝』っていう。月の家、えんは円い、朝と書いて。私ども人間にはです、もうそれは、いうなら『障子一重がままならぬ人の身』であって、もうどうする事もできないのが人間なんです、ね。例えばこの(お湯のみ?)(べぎ?)一つを、持つ事ですらがです、これは許されなければ持てんのです。
 鉛筆一本が神様のお許しを頂かねば持てんのです。許されて鉛筆を持っておるのである。許されて話をさして頂いとるのである、聞かせて頂いておるのである。そこの所の意味が皆さんもよくお分かりなる、おかげを頂かなければできる事ではないという事。いうならばです、ま、ああ、【あたくしども人間をお月様に例えるならばです、お月様そのものには、ひとっつも光はないという事です。
 それこそ、昼をあざむくような、ああ、耿耿(こうこう)と照らしておられる、あのお月様を見せて頂くとです、お月様に光があるようにあるけれども、実をいうたら光はないのです。】私ども人間がです、それこそ、さあ大臣だ、大将だというように(笑い)偉そうにしておりますけれども、人間そのものには、実をいうたら力はない、神様に恵まれ与えられておるから、あるのであります。ね、
 いわゆる神様の恩恵、いうならば太陽の恩恵を受けて、それが反射して、あの月の光になっておるように、あたくしどもの心の上にもそうなんです。そこで月家円朝という事になるのです。あたくしどもは、いうならば月のようなもの。ですから私どもがあぁ地球のかけに、影に隠れてしまった時には、もう暮れの闇です。ね、三日月の時には、三日月だけの光しか放てません。ね、
 円満の十五夜のような、円満ないわゆる円朝ですね、まんまるな心を頂かせてもらった時に、初めてこういう全面的に太陽の光を受けて、いわゆるなんともうしますか、ね、昼をもあざむくほどしの、あの人はあれで人間であろうかと仏様のような人じゃ、神様のような人じゃというのは、心が円満具足いわゆる全てがそれに共のうておる。人をあの人は神様であろうか、仏様であろうかと言う様な事になってくるのです。
 いわゆる、昼をあざむくと言う様にです、神様をあざむくほどしの矢張り、私し共にならせて頂く事が、できるという事ね。はあもう自分こそ、もうその立派な政治家だと、まあ昨日いろんな選挙がございましたね。選。まあその人の自分で自分を、宣伝しておられる言葉を聞くと、もう自分はもうそれこそその愛国の心は、あぁ止み難いほどしに国を愛しておるとか、ね。
 自分が立たなければ、まるきり日本の国は立たん様な(笑い)事言うたり書いたりしておられます。あぁまそうかも知れませんけども私しは思うのですね、自分の家一つ治めきらず、自分の心一つが治められずして、国が治められるだろうかと思う。自分の心一つが治められずして。ね、信心とは結局自分の心を円満なものにしていくというか、自分の心を治めるというか、どの様な場合どの様な事に直面致しましても、ね、
 それを有り難く受けさして貰うというかそういう稽古である。それもですそれが実をいうたら本当なのだと。ね、様々な問題を持って稽古さして下さる、そこにまあ私しどもの目から見ると、難儀と言った様な問題がです、ね、『難あって喜べ』と仰る様に、【難儀と人が言う時に、あたくしどもは実をいうたら、赤飯を炊いて祝うような心にならせて頂くという事なんです。】
 そういう心がです、できてくるというのは、どういう事からかというと、神様を信ずれば成であります。神様の働きを信ずる力がでけてくるから、どのような場合にでも、例えば普通でいうなら、泣きの涙という時でも、むしろ赤飯を炊いて祝うような心が頂けてくるんです。【治めるという字を、分解して書いてご覧なさい。三水編にム口と書いてある。ね、それが治める。ね、それを道によって正しく治める。
 それがね道によらなければ治められんのです。ね、その道を知らなければ治められんのです。】昨日ある方がもうま不幸せな、ま普通でいうなら不幸せな結婚という事だったんですね。けどそんな場合でもです、ま離縁になって帰ってみえておられます。ほんとに私の様な不幸せな者があろうかと、いう所に信心が白熱化して来たわけですけれどです、それは不幸せどころか。
 その人のそれこそ、赤飯を炊いて祝わなければならない様な事なのですけども。それでもう離縁になって帰ってこられて何年になりますでしょうか。先方のお母さんが、その人に、これは新しいものだからと言うて、洋服を送ってきたというのです。その人はその洋服をそれをなかに立った方から聞かせて貰って、かぁっときたんですね。あの様なふうにして別れて、言わば出てきておる。ね、
 どうしてあげなん所から貰おうかい。それこそつっ返して下さいと言いたい様な心の状態でお取次ぎを願われました。で私が「そげな事その根性があんたいかんとよ」と、「あんたの素晴らしい信心に向けられた時の、根性は素晴らしいけれど」ね、最近全ての事に、根性が必要だと言われて絶対必要なんです。ほんとに道を体得しようなどと言う様な事になってきたら、根性無しにできません。
 スキーひとつ覚えるでも根性無し、もう転んだから倒れたからというて止めよったら、スキーは出来ない様にです、信心の道はなおさらの事。根性が必要なんだ。けれどもね、そういう根性をね、例えばこの様な場合に使うたらいけん、この根性はそれこそ馬鹿と阿呆で道を開けとさえ仰るのに。折角向こうがですね、下さろうというのですから、「そりゃあどうもすいませんと頂いたらどげんあるか」と、私しが言う。
 こればやるけん又入って来て下さいと(笑い)、言うわけでもなかろうし、それでは恩着せ、まあ恩にきせられた所でこちら全然問題じゃないじゃないか。それをですね、人間心使いますと、あげなとっから貰よると、どげな宣伝されるじゃれしれんと。もうこういう根性が、もう信心には大禁物なんです。それこそ下さるものは夏も小袖で頂、受けれる心の状態。日頃何の稽古をしよんのか。
 まあしかしその人にとっては、嫌な所から貰うという事は、それこそ辛い辛いなら、それを修行と思うて受けて行ったらいいじゃないか。それを跳ね返すという事は、私しの信心にもとるのだ。【成り行きを大切にしていこうと、いわゆる治めるである。三水という事は、これは自然という事でしょうね。三水自然に起きた事を無口黙っ、無口という事は黙ってという事である。
 黙って受けるという所に心が治まるのである。それを受けんというて跳ね返す所に、そこにどういうおかげが潜んでおるやら分からん。こりゃまあ、私がいつも成り行きを大切にさしてもらう事は、こういう訳だという事をいつも説きますような事です。ね、それをです、ね、神様の働き、いうなら自然の働きをです、もう神愛以外にないと信じておるから受けられるのです。
 そうでしょうが、信ずればなりです。信ずればこそ、例えば不足を言わん、不満を言わん、思わんというてもです、それをただ辛抱する事は大変辛い事。けれどもね、本当の事が分からせて頂いたら、不足いうちゃあ勿体ない。不平どん思いよっちゃばからしかです。という事になってくるんです。】一口ご理解「治める」そういう心がですね、私は、いわゆる、『月家円朝』だと思うです。ね、
 私し共はお月様のように、実をいうたら何の力も光も持たないのだけれども、心が円満になる、まんまるくなってくると、神様の光をここにです、ね、全面的に受ける事ができる。ね、そこから光を放つ事ができる。【そこで、家を治めるという前に、まず自分の心を治められずして、家が治まるはずありません。めいめいが、ね。自分の家一つ治められない人が、どうして国も治められ、られる事ができましょう。ね、
 まずあなた方は、ね、政治家たるものがです、ね、国を治めるための、いわゆる国のまつりごとをなさるならです、まず、自分自身の心を祭れるような、ね、自分自身の心を治められる事をです、まず先決とするような、自分は立派なもので、相手はつまらんものだというような、言い方やら思い方しよるような事でです、ほんとのいわば、まつりなどができるはずがない。】←政府に対すると、
 私は信じますね。こりゃまあ余談ですけれども、私しどもはとにかく自分の心を治めるという事。それは自然の働きを無口で受ける、黙って受ける事が、この様にも本当な事で、この様にも素晴らしいものに繋がる事だということを信じれれるから、黙って受けられるのである。いや場合にはそれを赤飯を炊いて祝うような心。いぬきず←地名?の岡さんですね、福岡教会の総代さんが工場、家が全焼した時に、ね、
 一番始めに思われたのは、ほんとにこういう素晴らしいお取り祓いを頂いておるのであるから、神様にはいくら、お礼をさして頂いたならよかろうかと、思うたのが一番じゃったげな、頭に浮かんできたのが。そういう例えば、ね、大難に直面しておられる、火事の燃え上がっとるの見てから、帳面を持ってから一番口書かれたのが、一つ神様へのお礼、いくらいくらじゃったそうです。
 それから次の計画がずうっと立てられたという事です。ね、そういう場合に赤飯を炊いて祝うような心が、今のまた岡家具店のあの大きな、あぁその工場をまた持てれるような、いわゆる焼け太りのおかげを受けておられるのは、そういう心の状態が、そういうおかげになってきたと、あたし思いますね。そうほんとは赤飯炊いて祝うこと方がおかげ、本当なんだもん。
 いわゆる、自然に起きてきた、自分で火つけたわけじゃなかもん、ね。保険金もらうために火つけたっちいうならこりゃいかんばってん、ねえ。そういう自然に起きてきた事を黙って受ける、いわゆる自分の心がそこに治まってしもうた訳。そういう稽古をですね、あたくしどもは日々させて頂くということがです、あたくし道を体得して頂く事だと思うのです。ね、どの様な場合であってもです。
 あたくしどもが例えば雨が降ったからというて、ね、濡れしぼたれになる事ではなくて、傘というものを持っておれば、濡れる事が濡れんで済む様にです、私しども信心というものを持っておればです、どのような場合であっても、それこそスキーを身に付けさえおれば、どのようなとこでも滑っていけれるように、どういう障害があっても、それをジャンプして超えていく事ができるように、ね。、
 信心が身に付くまでが信心なのです、本当は。何が信心ちいう事はないです、ね、そういう信心が一つも不自然でない、ころ放れたものではないもう自分の体の一部の様にスキーが履けておる、そして場合によっ(ては)←☆言われてないけどいる☆、転びもしよったら、倒れもしようけれども、そこを屈せずに稽古していく内に、スイスイと気持ち良く滑っていけれる様なです、そういう信心をお互い身に付けていきたい。
 『此方の道は傘一本で』と仰せられる。その傘というのはスキーでいうならば、いわゆるスキーを履いておるその事だと思う。お天気の事でいうならばです、例えばお天気だからもう傘はいらんなどというのでなくて、いつも傘を持っておればいつどこで降ってきても濡れんで済む様なおかげを頂けれるように。信心さして頂くものは、いつも神様を外さずに、どのような場合、どこにおいてでもです。
 金光様を唱えられるだけの信心が身に付いてしもうたら、信心はいよいよ有り難い事になってきます。それは自然に起きて来る事はです、それこそきつ(さっき聞いても歌子の様な事を言われたかったたような話しじゃないけども、聞いただけで心が、かあっとするような事の場合もありましょうけども、神様をこの程度にしか信じきっていないのだ、自然の働きをこのようなふうにしか。
 まだ受けきっていない自分だと悟らせて頂いて、それを修行として受けさせて頂くうちに、はあ、あれは神愛だった、神様のなるほど働きであったと自分の心が治められるようになる、ね、三水偏に、ムを書いて、口を書いたら治める。三(水)←?という事は自然の働きと頂いたらええだろう。それを黙って受けれれれる、そういう道をあたくしは、ね、『傘一本で開かれる道』というのはそういう道だと思う。
 自分だけの事ではない、人の事だけではない、それこそ世界中の事が祈れれる、思われるね。今日のあたくしの心の中に、頂いておるのは、もうほんとに、初めてあたくしは、あの宇宙全体の事が、なにかしもう、しきりに祈られる自分が有り難かった。そしたら、神様から『月家円朝』と頂いた。そういう状態の時が、あたくしの心が、ある意味においての円満具足の時である。敵もなからなければ味方もないね。
 私し共がまぁ今日は人間私し共を月に例えた、その月も(暮れ)の闇じゃ、何の光も放つ事出来ないけれども、心が段々開けてきて三日月さんぐらいから、半月さんぐらいに、段々それが心の上におかげを頂いてくる事によって、月の(ひ、その光を増す増すように、)どもり私共の心の光が輝いてくる、ね。そういう何にものもない、成り行きの中に自然の中に神愛が込められておる、と信ずる所にどの様に是が信心のないと、薄い時であったら、腹が立ったであろうけれども。
 それを黙って有り難く受けられるという心、それを円満な心、ね。だからそういう道をです、その現在の様々持っておる、お互いの難儀というかあぁ問題を通してです、そのような稽古をさして頂く。そこに生きた天地、ね、『生きた神を信心せよ、天も地も昔から死んだことなし』と仰る様に、生きた天地を私しどもが拝する時、それは私し共がどのような、もん事柄でもそれを合掌して受けられる、赤飯を炊いてお祝いをするような心で受けられるという心が生きた心なんです。
そういう生きた心で、天地を拝む、金光大神のお取り次ぎを通して天地を拝む、そこに生きた働きがあたくしの所に流れてくる。ね、そこにですいわゆる『此方の道は傘一本で開くことができる』、此方の道とは、ね、金光大神がお受けになっておられるように、ね、無尽蔵、無限のおかげの受けられる道、此方の道とはそういう道。そういう道をあたくしどもが開かせて頂くという事では、どうでも必要なのは傘一本である。
 スキーをするなら、スキーがなからなきゃならないようにです、ね、それを身に付ける、はじめめの間はなるほど、稽古中ですから不自然例えば、昨日のその方のような、ね、自分は身に付けておる、スキーを身に付けておる。神様身を付けておるけれども、まあだ不自然なんです、ぎこちない、まだよく滑り切っとらんから、こんなものはむこさん返してくれんのといったような結果になってくるの。
 そこにお取り次ぎを頂いてお願をする所からです、それを黙って受けれるおかげ、ね。合掌して有り難いと受けられる心、ね。そういう心をです、稽古させて頂きながら、お互いの信心が進められなければならない。【おかげを受けるという事ならば、これはまぁいうならばみやすい、ね。稽古しなくてもいい時々参って頼めばそれでいい、いいけれども、そうではない、そのとうなねばならない事柄を通して、道を分らせて頂こうというのが金光様のご信心】ポイント・一言ご理解☆であり。
 私が朝晩とかして頂くのはそこなのですからね。ね、だからそこを本気で稽古しようという、あたくしは姿勢をね、作っていかなければならんと思うのです。お互い一つ本気で、『月家円朝』、ね、ならしてもらわなきゃならん、の心が円満である、ね、そこには神様の神の栄光ですね、神の栄光がさんさんとして、そこに輝くことでしょう。そういう輝きがあたくしどものね。幸せ又は、無尽蔵のおかげに繋がる原動力ともなるわけでございますから、それを体得する事のためにお互い信心の稽古しておると。
 不平も言わんですむ、不足も思わんですむという事は、その、そういう働きを受けておる事を、また、そういう神様を信じさして頂いておる事をです、ね、信ずればこそ不平も言わんですむのであり、不足もゆわんですむのである。思う事すらいらなくなってくるのである。そういう境地を目指させて頂くことが、あたくしは今日頂く、『月家円朝』というような事ではなかろうかと、こう思うんですね。
   どうぞ。